青い薬を選ぶかもしれない

2020-08-31

青い薬を選ぶかもしれない


ゲーム実況ライブ配信が盛況な今日この頃、見るもの聴くものに事欠きませんが、ゲームに関する分析・解説の記事とか読むの好きなので、ゲーム語りのチャンネルとかここ最近聞いたりしてます。

そんななか、ゲームライターの葛西祝さん中心にゲームトークを繰り広げる『令和ビデオゲームグラウンドゼロ』第12回欠番代わり(!?)の企画としてホラードキュメンタリーノベルゲームが公開されています。

新企画の発表「ホラードキュメンタリー・ノベルゲーム」リリース!
https://www.youtube.com/watch?v=4yddCfY7HZU

第12動画欠番 Missing Number 12 by PostCommercials: Alliance
https://postcommercialismalliance.itch.io/12


内容は動画視聴者向けだと思うのですが、フィクションとノンフィクション融合ジャンルのようで面白い試みでした。 (オールノンフィクションの可能性も残されている…かもしれない。)
今現在は YouTube などでライブ動画を流すのが手軽でポピュラーではあるのですが、リアルタイムでは語りたい話をすべて収めることができないけれど、あのときのゲームトークでこう話したらここでは何を語っていたか、対談レビューだったり思索だったりありったけ詰められる手段として、動画の代わりにノベルゲームが選ばれるような仕組みがでてきたら面白いな、なんて可能性をプレイしながら思っていました。
(選択肢を取り入れた動画なんて Netflix にありましたね。)
その中で一話題として触れられた、現代のビデオゲームに対する表現規制などの話題に思うところがあったので、今の考えをつづっておきます。



近年のゲーム周りによく表れる表現に関する摩擦(LGBTなど)、政治への批判規制は、ゲームをプレイする人が増えたことからみられるようになったものと考えています。
(厳密には普及規模が小さいころから存在したかもしれませんが、大きく問題として取り上げられるようにはならないでしょう。)
これまでは楽しむ『目的』としてのビデオゲームだったものが、アートであったり、意思表明・問題提起であったり、他人に何かを伝えるための『手段』として選ばれることから来るものです。
普及によってたくさんの人に使用されて『目的』としてのそれよりも、あって当然のインフラ・プラットフォームとしての『手段』の意義が強くなった結果、多面的な配慮が欲されるようになるのだと思います。

ゲームの技術が他分野に応用できるようになる一方で射幸性などの問題もいまだに抱えていますし、別の似たような経緯をたどっている例えだと、インターネットの普及で情報伝達の恩恵を受ける反面、過去存在した限定的な場としての良さが失われたり、(これからの)VR技術の普及が新表現の魅力を持つ一方、他技術同様の人種・表現関連の問題もはらんでいるし、仮想空間ならではの
trans-gender ならぬ trans-race なんて出かねないと思います。
空想の存在が現世に顕現したものが Virtual Youtuber だと認識していた人には、現在での一配信手段として扱われる vTuber プラットフォームの侵食はつらいことでしょう。



表現・政治問題のいざこざを持ち込んでゲームの場を荒らさないでくれという、ゲームにかかわる空間を自分のものとして好きに捉えたい思いもあり、楽しむ目的としてのゲーマー目線だと嘆きたくなります。
でもきっと、
その是非への
議論も通過儀礼で、その手段の上に成り立つ新しい娯楽だったり技術だったり、より高度な文化に人の興味が移っていくのかなと考えています。
ビデオゲーム自体、当初からビジネスとして存在しているのですから、規模を拡大するなというのはやむないことで、批判・対処するならこの資本主義の世の仕組みとかなのかもしれません。

私としては最終的にゲームの役割の変化を受け入れるべきと考えているのですが、そこを『手段』としてとどめるために変化の進行を和らげたり止めたりする方法も、もしかするとあるかもしれません。
ゲームのランキングにマイルストーン的な段階を設けて比較する範囲を狭めることも一部あてはまるし、インターネットの情報伝達の速さ・近さからくる生活ストレスを減らす話だったり。
どのくらい有効な方法があるかは知らないし、その役割の変化が生きているうちに訪れるかは分からないですけれども。



余談ですが、最近は YouTube はじめとするマネタイズ奨励なサービスの効果もあって (というと無粋ですが)、いろんなジャンルの HowTo 系の技術公開が盛んになっていて、ツールが一般人に普及するこれまでに加えて技術までが競争的に波及しだしていて、創作系がより皆に馴染んだ生産的社会に変わっていくのかなと思ったりします。
作り手側にならないと感じ取れにくいこと(以前よく聞いた原価で売れみたいな暴論とか)もあるので、きっかけは何にしろいい流れじゃないのかなーと。



いろいろな技術・習慣を手段として高く積み上げられてきてこの現代があるかと思うと、(テーマずれちゃいますが) 某映画で次の次元に進むための手段としてその構造を受け入れ、青い薬を選ぶのもやぶさかではないなーなんて思うのでした。

 

※赤→青 に訂正。 大事な部分まちがえるなんて…。

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