嫌いなゲームと好きなゲームと、娯楽と芸術と。
否定的なだけの態度は利点がなく、自分にも他人にもいいことないので、何に対してでも避けるようにしています。
そのことをわかっていて止めようと心がけていても、何かを否定したくなる考えが浮かび上がってしまうときがあります。
でもただ思い浮かんだことを綴りたかっただけです。
ビデオゲームの特定のジャンル、ゲームソフトクラスタとでも呼べるかな。
私はいわゆるソシャゲという分類のゲーム、ここ最近はその呼び名も古く適切ではないかも、でもその勢い衰えず。 そういうゲームが嫌いです。
大抵はサービススタート時のキャンペーンだったり、スクリーンショットから感じる匂いでわかるのと、モバイルデバイスでのゲームプレイに集中できないこともあって、踏み込んでプレイした経験は少ないです。 言いがかり的な部分もあるかもしれません。
その定義もあいまいですが、その特徴であり私の忌むところ。
他人の進捗やプロフィールの共有・通達、コミュニケーションを強要される度合いが高い。
ゲームの進行状況そのものもしくはその補助をリアルマネーで購入できる導線が太い。
モチーフ・オマージュ程度にとどまらない直接的な、他作品とのコラボ。
そういったビジネス目的の導線が目立つ部分が鼻につき、見た目がよさそうに感じても拒否してプレイしないようにしています。
その逆に今 League of Legends というゲームがとても好きです。
150を超えるキャラクターの強弱関係と多様性のバランスをうまくつなごうとするゲームプレイ面。
人とチームが興行としてゲームプレイし続けられる社会と文化を作ろうとするプレイヤーの環境面。
明確な勝ち負けという結果に与えるゲーム理解度以外の要素を抑え、プレイヤーのゲームに打ち込む熱意をこぼさず掬い取ろうとする Riot Games の開発運営スタイル。
そんな素晴らしいゲームは、時に勝負からうまれる負の感情に苛まれますが、そんなの可愛いくらいに時間と情熱をつぎ込むくらい惚れています。
でも、それだけ大好きなゲームにも裏切られるのではないかという考えがよぎります。
ゲームバランスをとるといいつつ結局はプロシーンと一般シーンを母体とする、キャラクター・アイテム単位の強化/弱体化のバランスとりは、出る杭が打たれるだけの人気投票のようなものではないのか。
多数派にあわせるばかりで結局のところこのゲームは世界観と物語のゲームではなく、ゲームシーンを均すバランスが優先なのか。
ゲーム内では強調せずともSNSなどのコミュニティを利用して、プレイヤー母数を増やすために、回りまわってお金を稼ぐことを目的として、バランス調整といういびつな天秤を揺らして、それをうまく取り繕っているだけなのではないか。
ゲーム内アイテム販売もコミュニティへの導線のシステム作りも、ビジネスなのだからそのパブリッシャーが意識していようがなかろうが、お金に結び付くことはあたりまえです。
極論みたいなことを考えすぎなのか、勝敗に疲れたのか、飽きたのか、自分の好まない方向に変わっていった時の保険なのか、よくわからないですが、そういった懸念みたいなどちらかというと負の想いもいつのまにか持つようになっていました。
常々意識はしませんが、私がビデオゲームに強く求めているのはそれ自体の完成度というか美しさというか、エンターテイメントに相対する芸術性なのかなぁと感じるときがあります。
芸術性というのが何を指すものなのかもわからないですが、たぶん生きることよりも先立つことなのだろうなぁと思うのです。
否定的な考えは結局のところ、視野を狭めるだけだから止めようと思いつつ。
肯定的に動いていけば、いつかは傷ついて疲れるのは同然なのだろうと思いつつ。
悩むふりをして生と楽に流されているのです。
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